授業参観



今日は授業参観だった。科目は国語。


…ああ。
いつのまにコイツ、こんなおちゃらけたキャラになったんだ?
かーちゃん恥ずかしかったよ…。


とにかくだらしないし。
姿勢はだれーんとしてるし、「暑い」「暑い」と言って下敷きで扇ぐし、下敷きで首の後ろをどうにか扇ごうとするし、何故かまだ机の上には給食袋が出ていて(5時間目)、それをぶらぶらさせて遊ぶし、体は常にあっちやこっちの横を向いているし、隣の席の子と喋るし、先生の話を聞かないし、忘れ物はしとるし、先生が教科書を読んでるのに見もしないし…。
がぁぁぁぁぁ!もう!
そしてことあるごとに、こっちを見て私の顔色を覗うし。(睨んだり、前を向けと指で示したりするのだが、一向に効き目がない…。とほー。)


そんで、先生の話にイチイチ突っ込んで授業の流れを止めている…。
やめてー!
「働く車」というような単元で、まず車の画像を先生が見せて、その特徴を子供たちが手を上げてあれこれ発表していく。一通り出たところで、次の車に移り、最後に教科書を読んで今までの意見と教科書の描写を比べてみる、というような進行であった。
子供たちの意見を適当なところで切り上げて、次に進もうとする先生。「これ以上はあとでこっそり先生に教えてください」と。そこでノボル「あとっていつ?休み時間?」「休み時間でもいいし」「明日?」「今日でもいいし」「今日はもう休み時間ないじゃないか」
…。
よそのお母さんがクスクス笑ってますよ…。恥ずかしい。


一事が万事こんな感じでねぇ。
ま、積極的に手を上げるようになったのはいいことだけど。(そして、当てられなかったときに、大袈裟にがっくりしてみせる…。芸人みたいなリアクションはやめれ。)
ああ、もう、とにかく、かーちゃんは恥ずかしかった!


もっと真面目な子だと思ってたけど、授業態度悪いし〜!
ま、しかし、確かに授業がぐいーんと前に進む感じがする部分っていうのが、45分授業の5〜10分くらいだもんね。全員を参加させることと、教科書的に前進すること、っていうのを両立させるのは難しいんだなぁ…。ぶっちゃけ、私も欠伸が出たけど…。
で、その授業が進む部分では、圧倒的にノボルはよくできるのだな。
絵を見ながら車の特徴をあげるときには、積極的に「はい」「はい」と元気良く手を上げていた子供たちが、教科書の記述を読んだ後、そこから車両の特徴の描写を捕らえて発表するという段になると、途端に手が止まってしまっていた。
そうか、この子、頭はいいんだな…。


しかし人の話を聞く姿勢とかがなってないってのは、この先、心配なんだけど。
ポイントポイントはちゃんと聞いているのかなぁ?だったらいいんだが。


親というのは、いつまでも心配が絶えませんな。



作文



入学当初、4月、5月頃は「真直ぐな線を書きましょう」だの「前から4番目のピカチュウに色を塗りましょう」だの、お笑い種のプリントを持って帰ってきたノボルであったが、小学校というのは、さすがに進度が速いのだな。この間は作文を持って帰ってきたよ。


で、ノボルの作文(前半は略す)。


かけっこがおそくなりました。リレーはしませんでした。かけっこもう1とうになれないな、とおもいました。



……。
なんだか、泣かせる。
子供ながら、気にしているのね。劣等感ってやつかのぉ。
でも、「だから努力しよう」という発想にはならないんだな。笑。


洪水のあとで

洪水のあとで―ノアたちのその後

洪水のあとで―ノアたちのその後



去年、ラボの発表会で『ノアの箱舟』をやった。そのときに、ラボバージョンのノアだけでなく、随分色んなノアを読んでいたようだったので、これもいいかな〜と思って借りてきた。


ノボルは、こういう「絵を見る絵本」を普段はあまり好まない。だから、どうかなーという気は多少あったけれど。
「洪水のあとでーノアたちのその後ー」とタイトルを読むと、「へえー、そんな話あったの!」とかなりの食いつき。おっ、これはいい感触。


そして1ページ目の「箱舟はアララト山の上にとりのこされた」という記述に「そうそう。」と頷く。
おお、『ノア』を思い出してるのね。
そして絵を見て「ここか」とひとりごちる。


箱舟を切り出したところでは「でも、まだ箱舟は残ってるんだよね?」と箱舟の行方を心配したり。ああ、ラボで体験したことが体の中に残っている。嬉しい。そうそう、彼らにとって「箱舟」がどれほど大切なものだったか!
そして箱舟をひっくり返して家にしたところでは「すごいこと考え付くなぁ」と感心を。


その後も一つ一つの記述を丁寧に味わって、平和に繁栄してゆく動物や人間の姿を満足そうに見ている。


最近の絵本にしては珍しく、後日にも、リピート依頼を。


何回も一緒に読んで「こっちの方がいいお話だね」と。
「『ノアの箱舟』より?」
「うん。僕はこっちの方が好きだな。」


最後のノア夫妻の絵を見ながら「もう、すっかり年取ってしまったね」と慈しむような声で。
それから「これ、ラボに持って行ってもいい?(みんなにも見せてあげたいから)」と言った。
ノボルがラボに対してこんな風に働きかけるのは初めてだ。


ラボで『ノアの箱舟』をやるって聞いたときは、難しすぎるんじゃないの?と懐疑的だったけれど。本当にやってよかった。
大きいお兄さんたちと一緒に合宿したり、合同練習を重ねる間に、色んなことを考えたのだよね。動物たちの気持ちとか、ノアと息子達は何歳くらいだと思う?とか、そりゃー様々なアプローチで。
そういうことが、ちゃんと生きてノボルの中に残っていると知った。


やはり良い物語は良いのだ。


ワルのぽけっと

ワルのぽけっと (角川文庫)

ワルのぽけっと (角川文庫)

(↑本当は、理論社から出ているものを読んだのだけれど、画像があるのがこれだけだったから、とりあえず、コッチを貼っておく。)


表紙をめくった1ページ目。目次の前のあのページをなんて呼ぶのだろう。とにかく、あのページに大きな文字で書かれている、本文中の一節を読んで、ノボルは「あれに似てるね。『マコチンとマコタン』。」と言った。
おおぅ!わかるのか!
同じ灰谷健次郎さんの書いたものだよ。
いや、まあ、大阪の悪ガキの言葉なんて、この人の本でなきゃ知らないか…。


それにしても、この人の作品には、いつもいつも問いを突きつけられる。
「貧乏は悪いのか」「この8人は本当にワルか」「金持ちは悪いのか」「人間の良し悪しを決めるのは何か」
もし、訊かれても答えられない。
さて、ノボルはそんな質問を発するだろうか?


ところで、「貧しさ」を知らない今の子たちに、この話がどれ程わかるだろう。
均質で程ほどに豊かな近郊住宅街に暮らすノボルには、セイゾウたち8人の「貧しさ」をどの程度リアリティを持って想像することができるのだろうか。
ロールプレイングゲームで訪れる「魔法の国」くらいに、「貧乏の国」は想像の領域なのではないだろうか。
こんな本を読むと、うちの実家が貧しくて良かったな、と思うのだ。
ノボルも恐らくいつか気づくだろう。父親の実家と、母親の実家の様子が違うということに。
そして、それは経済的格差だということに。
気づいたとき、もう大阪には行かないと言い出すだろうか。
そのときに、『ワルのぽけっと』のことをふと思い出すだろうか。


貧しさは汚らわしいことではない。
セイゾウやアカンタレのような友達を心の中に持っていてくれれば、将来出会う様々な現実を、真直ぐな眼で見られるようになってくれるだろう。
と、ほんのり期待してみる。


ところで、灰谷健次郎の本を読むときに、自分がネイティブ大阪弁を話せて良かったと、いつも思う。


今日、読んでいる途中で寝てしまったので、続きは後日。
ツーツーレロレロ」やら「あーしんど」やら、おもろい仇名に大受けのノボル。
喧嘩の場面も大笑い。
それでも、椛島先生とのからみあたりは、息を詰めた感じで聞いている。子どもっていうのは、やっぱり凄いな。
ノボルは、むしろオサム的立場の子だと思うけれど。どーゆー思いでこの話を聞くのだろう。



見学&懇談会



まず1時間ほど、お仕事の様子を見学する。
と思ったら、いきなり、今までのプリントをファイルすることができなくて教室にも入れないよ。


エレメンタリーの書き物類は、全部、自分のファイルに綴じて行くことになっているのだけれど、支給されたコレが18穴のリングファイルで。リングファイルって、何かの間違いでバラバラっと今までのものが全部外れちゃったら、またはめ直すの面倒くさいよね。
で、ノボルにもそういうハプニングがあったのか、今まで適当にやってたのが溜まってきたのか、どっちかは不明だけれど、とにかく大量の(←いつも量だけは多いっすよ)プリントをファイルの穴にチマチマ通す作業を延々と…。
しかも、超不器用で見てるだけでイライラする〜〜〜!
きぃぃぃぃ!お前、それは赤さんの頃のお仕事だろーが!まだできんのか、そんなことがぁぁぁぁぁぁ!(ゼェハァ)


しかも、少しばかり進んだところで、まだリングが開いている状態のときに、右半分のものを左半分に移そうとしたしたもんだから(普通にノートのページをめくる動作)、案の定、それがまた全部外れちまうという惨事に…。
あほだ、あほすぎる。
思わず「ふっ」と失笑を漏らしたら(でも、聞こえてないよ)、ノボルはきぃぃぃぃっとなって深く俯いてさっきよりさらに覚束ない手つきでファイリングし始めた、と思ったら泣いてるし…。ありえない〜〜〜。どんな情けない小学生だよ。
こんなんでモンテ育ちと言えるのだろうか…。よよよ。


やっぱり、いかに家で単調な生活しているかだよね。「手」の運動的には、ものすごーーーーーーーーーーく制限された劣悪な環境で育ってるのよね、彼。うわーーーん(今更どうしたらいいのよぅ)。
と、モンテに見学に行くたびに凹む。ふぅ。


まあ、教室に入るまでにそんな難関があって(普通の人はそんなことありませんよ)、なんとか入室して、取り掛かったのが「割算」。
割算には今、凝っている。
ていうか、エレメンタリーの半分以上は割算やってるよね…。ふっ。
今までは、「割られる数」の桁はどれだけ増えても、「割る数」は1桁だったのだが、なんと今日は「4桁割る2桁」をやっとりますよ!
1桁の数で割る時は、各位のビーズを小人さん(最大9人)に均等に振り分けていけばいいだけなので、話を聞いただけで作業の見当はついたけれど。2桁で割る時って、どーやるんだろー?


言葉で説明すると長くなるので略すけれど、10の位用の板と、1の位用の板を使って、ビーズを割り振っていた。
へぇ〜、すごい〜。(←すごいのはこの教具。)


しかし、ノボルは2桁で割るやり方を忘れていたと見えて、なんだか首をかしげながら適当にビーズを置いていっている。
あーでもない、こーでもないと試行錯誤するばかりで、解んなかったら先生に聞けばいいのに、一向に聞く気配がないのであった。
もうー、イライラする〜。
早う聞きにいけよ!
で、Y谷先生が横を通りかかったとき、ノボルの計算を見て、「あれ?」と言う顔をして、自分の掌に指で数字を書きながら検算していた。そーでしょ、間違ってるでしょ。先生、教えてやって〜。
と思ってみていたけれど、先生は「自分から言いに来る」という姿勢を重んじて、何も言ってくれないのであった。とほー。


そうこうしているうちに、H田先生が通りかかり、一目見るなり全然わかっとらんということを見抜いて、「ノボルくん、これはね・・・」と正しいやり方をもう一度説明してくださった。
ああ、ありがたや。H田先生、ありがとう!
しかし、私が見ているので照れているのか、ノボルの態度が終始しゃきっとしとらんことが気になる。うう、辛抱辛抱。


そして1年生集まってくださいといわれ、Y谷先生による「大きな数」のお話をレクチャーされていた。
数ビーズで1000までは見たことあるけど、すげーよ1000000を表す立方体まで用意されているとは!恐るべしモンテッソーリ教具。
確かにあれで「体験」すると、1000000がものすごーーーく大きい数だって実感するよなぁ。
大きな数なら任せとけ!のノボルは(←元数字オタク)、ここでは優等生振りを発揮していた。
ふっ、こんなことで、ちょっとばかし鼻高々になってしまう自分の俗っぽさが嫌だ…。


そんな風に1時間が過ぎ、次は懇談会。
と言っても、ほとんどH田先生による講義であったが。
講義の内容についてはまた次回。


見学&懇談会(その2)



私は、個人的には、幼児期のモンテッソーリ教育よりも、児童期のモンテッソーリ教育の方に興味がある。
だから、H田先生のお話は、いつもとても楽しみにしているのだ。


今回は「全体的な発達(心身のバランスの取れた発達)」のお話。
まあ、基本は幼児期と同じではあるのだが。
五感を刺激する選りすぐりの「良い」素材と環境を用意する。
それをどのように与えるか、提示するかにちょっとしたテクニックが。
決して押し付けてはならない。
さりげなく、目に付くところに転がしておく。(ここらへんは、少なくとも「本」に関しては、私、かなり実践できていると思う)
素材は厳選されたものを「出し惜しむ」形で与える。(たくさんズラズラっとありすぎると、見ただけで嫌気が差す)
食いつかないものは入れ替える。引き際も肝心。常に、フレッシュなものを。


さて、それを実行したとしよう。なんらかの筋肉運動(笑)が。
そして、親はその結果しか見ることができないことが多い(学校やエレメンタリーでの成果物しか見ることが出来ないから)。
「今日、何をやったの?」と訊くのはNG。
「楽しかった?」「満足した?」こちらを見る。
あるものを徹底的にやって満足したタイミングで、今まで苦手だったものを提示してみる。


能動的に取り組んだものに、満足したら、子どもはより深い刺激を求める。
自ら深く探求していく。
それはあたかも振り子運動のように。


それらの脳を介した運動が、「強い精神」を作り上げる。
強い精神のある子どもが「受験勉強」に割り切って取り組むなら、中学受験は4ヶ月、高校受験は3ヶ月、大学受験は2ヶ月でクリアできる、そうです(ドラゴン桜みたいだね。でも、正しいと思うよ。)


昨今の小学校では「道徳教育」が盛んだけれど、「道徳」は教え込めるものではない。
自分の内から育てていくもの。


モンテッソーリ教育とは「大きな枠」を作る教育。
まず、大きな枠を与える。
その中に、子どもたち自身で「引き出し」を作っていく。
その引き出しは、大きさも、数も、それぞれバラバラで。
今やっていることは、引き出しを作る作業。そして、引き出しの中に物を入れる作業。
引き出しの中を整理したり、引き出しと引き出しを関連付けたり、知識が統合されるのは、また別の段階。
うおぅ!正に、その通り!
ブラボー、H田先生!
そうなんだよ。だから、引き出しを作っている人に、「あっこのあの引き出しに入ってるアレ取ってきて」なんてことを言っちゃいけないのだよ。そーゆー正に重箱の隅を突付くがごとき下らんテストじみた質問を振っちゃいかんのだよ。
ラボっ子に、「猫は英語でなんていうの?」なんて訊いちゃいかんのと同じだよ。(ふっ、うちのじじいとばばあに聞かせてやりたいぜ。って100編聞いても理解できんだろうけど。)



はなのすきなうし



以前、先生に「ノボルはこの話があまり好きではない。なぜなら、フェルジナンドが闘わないから(闘いたいお年頃なのだ)」と言ったことがある。
先生は、もちろん、それを覚えていてくれて、でもテーマ活動でやるとまた違った面を発見できるかもしれないしね、とノボルを誘ってくれていた。


で、「やるから聞いておいてね」と言われ、絵本を見ながら聞くノボル。
見ていると、絵本をめくるタイミングとか、ちゃんと合ってるんだねー。(もちろん英語表記。)
もちろん読めないけど、お話の内容と絵を絡めて聞いているんだなー。


そんで、実際のテーマ活動は結構楽しそうにやっていた。
女の子たちがフェルジナンド
男の子たちは、全員他の子牛か、町の男か、闘牛士か。
あ、ノボルが是非やりたいと張り切っていたのが、「くまんばち」。
これはやりたいよなー(笑)。(この場面は、また例のごとく、ただの鬼ごっこになっていた…)


最後の「フェルジナンドは、いまでも大好きなコルクの木の下に座って、相変わらず、静かに花のにおいをかいでいるということです。フェルジナンドはとてもしあわせでした。」というところ。
家でノボルはこう呟いた。
フェルジナンドは、いまでも大好きなラフレシアの木の下に座って、相変わらず、静かにウンコのにおいをかいでいるということです。フェルジナンドはとてもしあわせでした。」
そして、にやりと笑った。
嗚呼。